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告白 [日記]

大学生になってもうすぐ二か月が経つ。ニートだった去年の生活とは一転して忙しい毎日を送っている。ニートの頃の楽な生活に戻りたいと思う反面、社会の一員として生活できている自分に感動している面もある。日々、さまざまなことに悩みながら生きているが、一つだけ言えるのは、自分はこの四年間で成長したいと強く思っているということだ。

人と関わりたいと思う反面、人と関わることの煩わしさがものすごく嫌になるときがある。むしろ後者のように感じるほうが多いかもしれない。しかし、今日、人と話したことでずいぶんと心が明るくなった。人に話しかけられて嬉しかった。いつまでも同じことを繰り返している自分に嫌気がさす。これも何度言ったか分からない。だから私は心療内科に行くべきなのだと思う。そうして、自分が自閉症スペクトラムなのではないかという疑惑を明らかにするべきだ。

最近、お酒をあまり飲まなくなった。それはおそらくあの人に彼女ができて、完全に希望が絶たれたからなのだろう。つまり、少しの希望を抱きながらも行動できない、諦められないという葛藤を抱いていたからお酒を飲むことで現実逃避していたのが、彼女という存在ができたおかげで否が応でも自分のもつ可能性が0であることを認めなくてはならず、そうすることで少しずつ執着心が消えていったのだと思う。

あの人に出会ったことは全く後悔していないし、私の人生が変わるきっかけになった人間であるから感謝している。私の癖として、「酔いたがり」な部分がある。不幸な自分、かわいそうな自分に浸りたい。それが快感なのだ。そういう癖も彼に対する執着心の増幅を助長させたのだろう。

しかし、それに浸っていることは果たしてどれだけの価値があるだろう?一時期の自分の欲求を満たせたとして、本当にそれは幸せなことなのだろうか。

結論は自分でもすでに自覚している。彼に執着するのは時間の無駄であり、もうこの恋はすでに終わっているのである。なんとなく不完全燃焼な感じがするのは、彼に告白をきちんとしていないからだ。自分の気持ちをぶつけて、きちんと断られるべきだった。


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生きることについての考え [疑問]

高校2年も半分が過ぎたというのに志望校が決まらない。そこで以前から気になっていた学問の本を一通り見ていくことにした。そのうちの一つであるジェンダー学についての入門書を読み、多くの気付きを得ることができた。

新しい知識を得られたのは嬉しい。しかし、その内容があまりにも不快なものであるから正直、知らないほうが幸せだったのではないかと感じるときもある。あと数年後にはこの日本の社会で働かなければならないが、それも億劫に思える。今でさえ、制服のスカートに対する嫌忌の念が積もっている。長く続いた習慣はそう簡単に変えられるものではない。

最も耐えがたい事実は、自分自身の中にジェンダー観が根強く存在しているということだ。入門書を読み終えて3週間ほどたった今でも依然としてジェンダーにとらわれている自分に気付くことがある。もちろんまだ入門のレベルであって深い知識などは皆無であるから、これから学び続けていけば当然得られるものはあるだろう。しかしそうして自分が変わっても、ジェンダーが「社会的性差」と定義されているように、社会が、一人一人が変わらなければ意味がない。そして社会を変えるだけの能力や権力がなく、かつ、将来それらを得られる見込みのない自分がこれを勉強し続けても恐らくこの社会に何の影響も与えることができない。

以上の理由で志望校から社会学部という選択肢を消した。この考えから、そもそもなぜ日本を良くしていかなければならないのか、更に言えば世界中の問題をなぜ解決していかなければならないのか、そしてなぜ生きなければならないのかという疑問が生じた。

人間である以上、死は避けられない。年をとれば認知症などの病気のリスクも高まる。体の自由がきかなくなることも多い。80年くらいで自分にとっての全てが終わる。そんな中で、どうして解決できるかも分からない難しい問題に取り組まなければならないのか?確かに自分の利益に深く影響するような問題であれば取り組む意義はあるだろう。しかし少し不自由する程度だったり、自分にあまり関係がなかったりするような問題にあえて取り組む意義はあるのだろうか?

このように書くとひどく利己的な考え方だと思われるかもしれない。でも、自分より他人が大切な人間がどこにいるだろう?なにも自分以外がどうでも良いと言っているわけではない。私たちが社会的存在である以上、社会の秩序を守るための最低限の義務は果たさなければならない。ただ、それ以上の社会を良くするための行動は本当に必要なのか?

規模の大きな話であるが、地球にも寿命がある以上、全てが終わる日が来る。それは確実なのになぜ地球を良くしていかなければならないのか?終わってしまえばその努力は何にもならない。それならば今の自然に任せるのではいけないのか?この時代をこの年齢で生きている自分だから言えることなのかもしれない。だけど、自分の後の世代のことなんてはっきり言って私には関係がない。

これを書いた今、自分には倫理観や道徳心が欠けているのかもしれないと感じた。でも、仮に本当に欠けていたとして何が問題なのだろう?

悩みはつきない。

日記 [日記]

布団に入って電気を消してから約1時間。明日も早いのにどうしても寝れないので頭が余計なことを考え始める。どうしようもない孤独感、将来に対する漠然とした不安、焦燥感。

自分に余裕がないからか、周囲の人々や出来事に神経質になる。今まで笑って許せていたことも馬鹿みたいに引きずるようになった。理想とする自分から日毎に離れていく現実。やるべきことも考えるべきことも山積みなのに適当な理由をつけていつまでも逃げている。こんな状態がもう1ヶ月以上続いている。このままでは結局過去と同じ過ちを繰り返すに違いない。何一つ成長していない自分が心の底から情けない。

深夜だからこんなに悲観的なのだろうか。今年に入ってから何度も新しい目標を掲げ、計画を立て、実行し、挫折することを繰り返してきた。思い返してみればいつも、明確な理由もなく計画を途中で放り投げていた。ちょっとつまづいて精神的ダメージを受けるとすぐに次の目標を作り出していた。そうして過去の自分の努力を認めようとせず、新しい目標に向かう自分でいることで満足していたのかもしれない。

精神的に落ち込んでいる状態でものを考えてもろくな答えが出ないことは過去の経験から学んだ。しかしながら、現在の自分が精神的に落ち込んでいるのかどうか、自分でも分からないのだ。ただ、考えていても厭世的な見方から答えを出そうとしているような気はするし、ひどく悲観的かつ神経質になっているのは事実である。また、このようなことを考えるよりも先にやるべきことが山ほどあるので出来るだけ早急に解決したいものだ。

「友達」と一緒 [疑問]

最近学校で他の生徒の言動に苛立つことが多い。
自分には全く関係がなく生活にも差し障りがないにも関わらず、だ。しかもその言動は今に始まったことではない。ストレスが溜まっているのだろうか。或いはなんらかの原因で人間嫌いが酷くなったのか。

癪に障る行動を例にあげるならば、移動する際にわざわざ友達を待って一緒に喋りながらだらだらと歩く、休み時間にわざわざ椅子を動かして友達と一緒に弁当を食べる、授業中の私語(小声)や手紙交換……など、多くの高校生がやっているようなことであり、いずれも私には何の不都合ももたらさない行動である。
それなのに何故これらの行動を見ると腹が立つのか。考えられる理由は二つある。

一つ目は妬みだ。私はクラスの中に「友達」と呼べる存在は数えるほどしかない。それも非常に薄い付き合いのものだ。それと対照的に彼女らは大勢の友人に囲まれ楽しそうに笑っている。実際はどうかは知る由もないが、はたから見てとても幸せそうなのは事実である。したがって、現在お世辞にも幸せであるとは言えない自分の現状と比べてしまい、妬みという感情が生じるのではないだろうか。

そうでなければ、自尊心の裏返しだろう。私は友達という存在に価値が見出だせないし、更に言えばプリクラ、カラオケ、ショッピング等の普通の女子高校生が普通にすることを素直に楽しめない。ただ教室を移動したり弁当を食べたりするのに友達と一緒が良いという感覚も友達と喋りたいという感覚も理解できない。嘗てはそのことで悩んだが今はそんな自分を受け入れているつもりである。しかし根底には人としておかしいのではないかという疑惑があり、それを隠し通すために普通のことを素直に楽しむことが出来る人達に対するマイナスの感情を作り出し、自分を保とうとしているのだろう。

では、どうすることで解決できるのだろうか。前者が原因ならば幸せを手に入れるしか解決策は無いだろう。しかし自分にとって何が幸せなのか考える必要があるし、そもそも幸せになるということはどういうことなのかという根本的なことも理解していないので、それらに関する書物を読むべきである。

後者が原因だとすると、解決するのにかなり労力を要するように思う。まず、現時点で価値が無い、楽しめないと感じているものに興味を持とうとしても恐らく不可能だろう。人として何かがおかしいという感覚は、こうして書き出してみてから気が付いたことであるが、もしかしたらずっと思っていたことなのかもしれない。しかし何がおかしいかと問われても明確な答えは出せない。

視野を広げれば私と同じような人がいるかもしれない、いや、きっといるだろう。ただそうだとしても少数なのには変わりがなく……いや、その根拠はどこにある?大勢の高校生が「友達」と行動を共にし「友達」と遊んでいるが本当に皆それを心から望み、楽しんでいるのだろうか?答えが否だとしたら何のために?……


今回の悩みは一朝一夕で結論が出せるようなものではないらしい。もっと沢山の書物を読んで頭の中を整理してから気付いたことを書き足していきたいと思う。

復讐と過去への執着 [アドラー心理学]

私は母親を好きになれない。それは恐らくこれからも変わることはないだろう。しかし、母親を憎むのは間違っていると思えるようになった。

小学校6年生頃まで私にとって母親は絶対的な存在であった。幼い頃のことなのであまり鮮明な記憶はないが、1年生の頃から母親に気を使っていたのは覚えている。中学生になって母親に対して疑問を持つようになったが、反抗する勇気は持てなかった(母親にとっては十分反抗していたように見えるだろうが)。それは17歳になった今でも続いているが、約2年前にアドラー心理学に出会い、そして少しずつ実践していくうちにある気付きを得た。

母親を憎むべきではない

一言で言えば、「復讐」だったと思う。よく、「母親の見ているところで幸せになりたくない」と思っていた。それが世間体や見栄のためだとしても、私が幸せになることによって母親も幸せになるのだけは避けたかった。出来損ないの不幸な私を見て、今まで自分がしたことの重さに気付き、一生後悔し続ければいい、そして、母親の見えないところで幸せになることこそが本当の意味での復讐成功だ、そう考えていた。
しかしそうしたところで結局、私が復讐した気になっても母親は何とも思わない可能性だってある。そもそも人を操作することなど不可能なのだからそんなくだらない「復讐」のために(=母親のために)労力を使うのはあまりにも勿体なさすぎる。
そして何よりも、母親を操作するつもりで逆にこちらが操作されていた事実に嫌気がさした。一刻も早く母親から逃れたいがために進路を変え、母親となるべく顔を合さないように生活習慣を変え、母親を悲しませるためにリストカットを繰り返し……。母親から逃げるどころか、全ての選択の中心が母親になっていた。最も忌み嫌っている母親のために膨大な時間を浪費した。これ程までに馬鹿馬鹿しいことってあるだろうか。

母親を嫌う理由

私の母親に対する憎悪の源は全て過去の出来事にある。過去の出来事は今現在の自分に何の関係も無い、それは理解している。だけどその出来事によってひどく傷ついたり、激しい怒りを覚えたりしたのも事実だ。だからそれ以上の苦しみを与えるために復讐を計画していた。

しかし復讐が無意味なものなら母親を嫌う意味も無いのではないかと思い始めた。過去は今と関係ないと分かっていながら過去に執着している矛盾にも疑問があった。そこで、過去の出来事を他の観点から捉えることに挑戦した。

例えば、6年生の頃に母親に友達とのメールを全て見られたことがある。勝手に、ではないけれど当時の私にとっては拒否するという選択肢が無かったので素直に母親に携帯を渡した。この出来事から、「母親は私を信用していない」と捉えることも出来るが「断ることの出来ない自分の弱さを知れた良い機会だった」と捉えることも出来る。
他にも、すぐに感情的になり怒りの力で屈服させようとする母親を「ろくに話し合いも出来ない浅薄な人」から「反面教師に最適な人」と見ることだって出来る。この調子で、思い出せる限りの過去の出来事全てを今までと異なる視点から捉えてみると、不思議と憎悪の念が薄らぐように思えた。

まだ、関係を良くしていこうとは思えないが、母親中心に物事を選択したり、母親の前だけで「失敗作の子供」を演じたりするのはやめようと思う。

「変人」になりたがる人達 [アドラー心理学]

「幸せになる勇気」を一通り読んで、まず一つの疑問が解消された。

どうして皆『変人』になりたがるのか?

特に今の学校に入学してからずっと不思議に思っていた。私から見て何も変わったところの無い人間を変人だと言ったり、変人を自称したりする人間が多い、と。私が思う限り『変人』はもっとネガティブなイメージであり、軽々しく口にできるような言葉ではないという風に認識していたが、まるで褒めるようなニュアンスで誰かに変人だ、という。
いや、「褒めるような」では語弊があるかもしれない。例えば顔かたちが美しくない人に対して、思っていても『ブス』とは言わないのが普通だろう。例えそれがどんなに親しい仲で冗談混じりに言ったとしても、相手が傷つく可能性があるから。それに対して『変人』は、軽い気持ちで冗談っぽく言うことができるし、言われた相手も不快感を露にしないことが多いと感じる。それどころか喜んでいる人も多かったように思う。それが何を意味するか。

結局、普通である自分を認めたくないだけなんじゃないか。『変人』という特別な枠の中に自分を位置付けることによって、人と違う自分でありたいと思う。『変人であること』をアイデンティティにしているのだろう。もっとも、自分だって『男性が苦手であること』をアイデンティティにしていたので偉そうなことは言えないが。

「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置く

幸せになる勇気を読んで、上記の言葉が一番心に残った。そもそも誰一人として自分と全く同じ人間はいないのだから、わざわざ『自分は人と違う』と自称することは物凄く無意味なことだ。それによって優越感を得ようとするのも承認欲求に囚われている証拠なのだ。

母親への憎しみと復讐 [疑問]

新たな疑問が生まれた。

一度復讐の段階まで達してしまった相手を自分の人生から抹消することは可能か?

これは何度考えても自分では結論が出なかった。嫌われる勇気では復讐にまで及んだ場合当事者同士での解決は不可能だと書いてあったように思う。しかし、愛のタスクから逃げることは人生の嘘である。それは、かつて復讐をした相手にも言えることなのだろうか?

私の場合は母親だった。小学五年生の時に始めたリストカットは、愛してくれない母親への復讐が目的だった。私が手首を切れば母親は悲しむ。それを分かっていながら自傷行為を続けていた。中学二年生の時にそれが見つかった時、予想通り母親は酷く悲しんだ。その時すでに復讐は成功していたのだ。

勿論今は自傷行為などしていないが、憎しみだけは未だに残っている。ただそれもアドラー心理学に出会ってから、特に課題の分離を知ってから段々薄れていっているのを感じる。しかし母親の声を聞いたり姿を見たりすると、どうしても憎悪の感情が心の底から沸き上がってくるのだ。

18歳になったらすぐさま家を出て一切の連絡手段を絶ち、20歳で分籍するつもりでいた。そうすることで『母親』という存在を自分の人生から消そうと考えた。もしそれで共同体感覚を掘り起こせなくなるのなら、死んだことにしようとも考えた。

それはアドラー心理学の観点から見れば間違っていることなのだろうか?

性についての考え [アドラー心理学]

私は好きな男性芸能人がいる。しかし彼が私の目に物凄く魅力的に映るのはきっと私が他の男性を知らないからだろう。もっと言えば芸能人の男性にばかり目が行くのは一般人の男性を見ていないから、ただそれだけの理由だ。しかしながら、それが間違っているかと聞かれるとはっきりとした答えは出せない。とは言え芸能人しか見ないのなら、現実的に考えて芸能界に入らない限り男女交際や結婚などといったことからは離れてしまうだろう。きっと私が気付いていないだけで芸能界じゃなくても素敵な男性は沢山いる。ただ踏み出すのが怖い。私にとって男性と関わることは難易度が高すぎる。

そもそも何故男性と関われないのか?

フロイト的な原因論で考えれば、小学生の頃に会った男と中二の時のクラスメイト、電車内にいた変質者、そして放課後会った変質者、彼らに関わって怖い思いをしたから関われなくなったと考えるのが普通だろう。しかし私はフロイトよりもアドラーの心理学に沿って生きていきたい。

では、何が目的で男性と関わらないのか?

一つは男性に傷つけられることで女性としての自分を否定されるのが怖い、だから自分を傷つけられないように守るため。もう一つは男性と喋れないことを一つのアイデンティティにしているのではないか。

そう考えると、確かに家族と学校の先生以外の男性とまともに話したことのない自分を変えたいと思いながら、どこか誇りに思っていた部分もあった。人と違う自分、イコール特別な自分に酔っているのだろう。くだらない自己陶酔に気をとられて自分の人間としての幅を自分で狭めていた。男女差別に嫌悪感を抱きながら、一番差別をしていたのは自分だったのかもしれない。男性というだけで怖い人だと決めつけて避ける。なんて単純で目出度い考え方だろう。確かにあの恐怖心は本物だし、男性に対して身構えてしまう側面も無いとは言い切れない。ただ皆が皆怖い人ではないし、傷つける人ばかりなわけでもない。きっとそれは前から分かっていた筈だ。

そうなると、自分が同性愛者であるという認識も危うくなってくる。いや、本当は分かっていたんじゃないか。自分は異性愛者であり、マイノリティでも何でもない、と。ただそれを人に言うのが嫌だった。男性を好いている自分を人に見られたくない?これも課題の分離が出来ていないだけだろう。きっとただの自己陶酔にすぎない。マイノリティである自分に酔っていたかっただけだ。恋に恋してるだけ、の意味がやっと分かった気がする。先生が好きだった(と感じていた)ときも、同性に恋してる(つもりの)私が好きだっただけだ。

では何が目的で異性愛者と思われたくなかったのか?

好きな男性に対しては女性として見られたいが、家族や友達などには女と認識してほしくない。これも結局は課題の分離をするべきなのだろう。好きな男性に対しては女性として見られたい、ここを見ると異性愛者であることは明らかである。そして家族や友達に女と認識してほしくない、これは女である自分が嫌というより、女性のジェンダーが嫌なのではないか。おしとやかであるとか、大人しい、受け身であるなどが私の思う一般的な女性像であり、自分にもいくつかそのような点はあると感じている。ただそれが自分にとっては必要のないもので、寧ろそんな自分を変えたいとすら思っているのでまずはその女性像から抜け出したいと思い、嫌悪感に繋がっているのだろう。

髪を切ったのもメンズ服を着ているのも、勿論それ以外の目的もあるが、根本的な目的は自分の描く女性像から抜け出すことだったのだ。

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