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復讐と過去への執着 [アドラー心理学]

私は母親を好きになれない。それは恐らくこれからも変わることはないだろう。しかし、母親を憎むのは間違っていると思えるようになった。

小学校6年生頃まで私にとって母親は絶対的な存在であった。幼い頃のことなのであまり鮮明な記憶はないが、1年生の頃から母親に気を使っていたのは覚えている。中学生になって母親に対して疑問を持つようになったが、反抗する勇気は持てなかった(母親にとっては十分反抗していたように見えるだろうが)。それは17歳になった今でも続いているが、約2年前にアドラー心理学に出会い、そして少しずつ実践していくうちにある気付きを得た。

母親を憎むべきではない

一言で言えば、「復讐」だったと思う。よく、「母親の見ているところで幸せになりたくない」と思っていた。それが世間体や見栄のためだとしても、私が幸せになることによって母親も幸せになるのだけは避けたかった。出来損ないの不幸な私を見て、今まで自分がしたことの重さに気付き、一生後悔し続ければいい、そして、母親の見えないところで幸せになることこそが本当の意味での復讐成功だ、そう考えていた。
しかしそうしたところで結局、私が復讐した気になっても母親は何とも思わない可能性だってある。そもそも人を操作することなど不可能なのだからそんなくだらない「復讐」のために(=母親のために)労力を使うのはあまりにも勿体なさすぎる。
そして何よりも、母親を操作するつもりで逆にこちらが操作されていた事実に嫌気がさした。一刻も早く母親から逃れたいがために進路を変え、母親となるべく顔を合さないように生活習慣を変え、母親を悲しませるためにリストカットを繰り返し……。母親から逃げるどころか、全ての選択の中心が母親になっていた。最も忌み嫌っている母親のために膨大な時間を浪費した。これ程までに馬鹿馬鹿しいことってあるだろうか。

母親を嫌う理由

私の母親に対する憎悪の源は全て過去の出来事にある。過去の出来事は今現在の自分に何の関係も無い、それは理解している。だけどその出来事によってひどく傷ついたり、激しい怒りを覚えたりしたのも事実だ。だからそれ以上の苦しみを与えるために復讐を計画していた。

しかし復讐が無意味なものなら母親を嫌う意味も無いのではないかと思い始めた。過去は今と関係ないと分かっていながら過去に執着している矛盾にも疑問があった。そこで、過去の出来事を他の観点から捉えることに挑戦した。

例えば、6年生の頃に母親に友達とのメールを全て見られたことがある。勝手に、ではないけれど当時の私にとっては拒否するという選択肢が無かったので素直に母親に携帯を渡した。この出来事から、「母親は私を信用していない」と捉えることも出来るが「断ることの出来ない自分の弱さを知れた良い機会だった」と捉えることも出来る。
他にも、すぐに感情的になり怒りの力で屈服させようとする母親を「ろくに話し合いも出来ない浅薄な人」から「反面教師に最適な人」と見ることだって出来る。この調子で、思い出せる限りの過去の出来事全てを今までと異なる視点から捉えてみると、不思議と憎悪の念が薄らぐように思えた。

まだ、関係を良くしていこうとは思えないが、母親中心に物事を選択したり、母親の前だけで「失敗作の子供」を演じたりするのはやめようと思う。

「変人」になりたがる人達 [アドラー心理学]

「幸せになる勇気」を一通り読んで、まず一つの疑問が解消された。

どうして皆『変人』になりたがるのか?

特に今の学校に入学してからずっと不思議に思っていた。私から見て何も変わったところの無い人間を変人だと言ったり、変人を自称したりする人間が多い、と。私が思う限り『変人』はもっとネガティブなイメージであり、軽々しく口にできるような言葉ではないという風に認識していたが、まるで褒めるようなニュアンスで誰かに変人だ、という。
いや、「褒めるような」では語弊があるかもしれない。例えば顔かたちが美しくない人に対して、思っていても『ブス』とは言わないのが普通だろう。例えそれがどんなに親しい仲で冗談混じりに言ったとしても、相手が傷つく可能性があるから。それに対して『変人』は、軽い気持ちで冗談っぽく言うことができるし、言われた相手も不快感を露にしないことが多いと感じる。それどころか喜んでいる人も多かったように思う。それが何を意味するか。

結局、普通である自分を認めたくないだけなんじゃないか。『変人』という特別な枠の中に自分を位置付けることによって、人と違う自分でありたいと思う。『変人であること』をアイデンティティにしているのだろう。もっとも、自分だって『男性が苦手であること』をアイデンティティにしていたので偉そうなことは言えないが。

「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置く

幸せになる勇気を読んで、上記の言葉が一番心に残った。そもそも誰一人として自分と全く同じ人間はいないのだから、わざわざ『自分は人と違う』と自称することは物凄く無意味なことだ。それによって優越感を得ようとするのも承認欲求に囚われている証拠なのだ。

性についての考え [アドラー心理学]

私は好きな男性芸能人がいる。しかし彼が私の目に物凄く魅力的に映るのはきっと私が他の男性を知らないからだろう。もっと言えば芸能人の男性にばかり目が行くのは一般人の男性を見ていないから、ただそれだけの理由だ。しかしながら、それが間違っているかと聞かれるとはっきりとした答えは出せない。とは言え芸能人しか見ないのなら、現実的に考えて芸能界に入らない限り男女交際や結婚などといったことからは離れてしまうだろう。きっと私が気付いていないだけで芸能界じゃなくても素敵な男性は沢山いる。ただ踏み出すのが怖い。私にとって男性と関わることは難易度が高すぎる。

そもそも何故男性と関われないのか?

フロイト的な原因論で考えれば、小学生の頃に会った男と中二の時のクラスメイト、電車内にいた変質者、そして放課後会った変質者、彼らに関わって怖い思いをしたから関われなくなったと考えるのが普通だろう。しかし私はフロイトよりもアドラーの心理学に沿って生きていきたい。

では、何が目的で男性と関わらないのか?

一つは男性に傷つけられることで女性としての自分を否定されるのが怖い、だから自分を傷つけられないように守るため。もう一つは男性と喋れないことを一つのアイデンティティにしているのではないか。

そう考えると、確かに家族と学校の先生以外の男性とまともに話したことのない自分を変えたいと思いながら、どこか誇りに思っていた部分もあった。人と違う自分、イコール特別な自分に酔っているのだろう。くだらない自己陶酔に気をとられて自分の人間としての幅を自分で狭めていた。男女差別に嫌悪感を抱きながら、一番差別をしていたのは自分だったのかもしれない。男性というだけで怖い人だと決めつけて避ける。なんて単純で目出度い考え方だろう。確かにあの恐怖心は本物だし、男性に対して身構えてしまう側面も無いとは言い切れない。ただ皆が皆怖い人ではないし、傷つける人ばかりなわけでもない。きっとそれは前から分かっていた筈だ。

そうなると、自分が同性愛者であるという認識も危うくなってくる。いや、本当は分かっていたんじゃないか。自分は異性愛者であり、マイノリティでも何でもない、と。ただそれを人に言うのが嫌だった。男性を好いている自分を人に見られたくない?これも課題の分離が出来ていないだけだろう。きっとただの自己陶酔にすぎない。マイノリティである自分に酔っていたかっただけだ。恋に恋してるだけ、の意味がやっと分かった気がする。先生が好きだった(と感じていた)ときも、同性に恋してる(つもりの)私が好きだっただけだ。

では何が目的で異性愛者と思われたくなかったのか?

好きな男性に対しては女性として見られたいが、家族や友達などには女と認識してほしくない。これも結局は課題の分離をするべきなのだろう。好きな男性に対しては女性として見られたい、ここを見ると異性愛者であることは明らかである。そして家族や友達に女と認識してほしくない、これは女である自分が嫌というより、女性のジェンダーが嫌なのではないか。おしとやかであるとか、大人しい、受け身であるなどが私の思う一般的な女性像であり、自分にもいくつかそのような点はあると感じている。ただそれが自分にとっては必要のないもので、寧ろそんな自分を変えたいとすら思っているのでまずはその女性像から抜け出したいと思い、嫌悪感に繋がっているのだろう。

髪を切ったのもメンズ服を着ているのも、勿論それ以外の目的もあるが、根本的な目的は自分の描く女性像から抜け出すことだったのだ。

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