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生きることについての考え [疑問]

高校2年も半分が過ぎたというのに志望校が決まらない。そこで以前から気になっていた学問の本を一通り見ていくことにした。そのうちの一つであるジェンダー学についての入門書を読み、多くの気付きを得ることができた。

新しい知識を得られたのは嬉しい。しかし、その内容があまりにも不快なものであるから正直、知らないほうが幸せだったのではないかと感じるときもある。あと数年後にはこの日本の社会で働かなければならないが、それも億劫に思える。今でさえ、制服のスカートに対する嫌忌の念が積もっている。長く続いた習慣はそう簡単に変えられるものではない。

最も耐えがたい事実は、自分自身の中にジェンダー観が根強く存在しているということだ。入門書を読み終えて3週間ほどたった今でも依然としてジェンダーにとらわれている自分に気付くことがある。もちろんまだ入門のレベルであって深い知識などは皆無であるから、これから学び続けていけば当然得られるものはあるだろう。しかしそうして自分が変わっても、ジェンダーが「社会的性差」と定義されているように、社会が、一人一人が変わらなければ意味がない。そして社会を変えるだけの能力や権力がなく、かつ、将来それらを得られる見込みのない自分がこれを勉強し続けても恐らくこの社会に何の影響も与えることができない。

以上の理由で志望校から社会学部という選択肢を消した。この考えから、そもそもなぜ日本を良くしていかなければならないのか、更に言えば世界中の問題をなぜ解決していかなければならないのか、そしてなぜ生きなければならないのかという疑問が生じた。

人間である以上、死は避けられない。年をとれば認知症などの病気のリスクも高まる。体の自由がきかなくなることも多い。80年くらいで自分にとっての全てが終わる。そんな中で、どうして解決できるかも分からない難しい問題に取り組まなければならないのか?確かに自分の利益に深く影響するような問題であれば取り組む意義はあるだろう。しかし少し不自由する程度だったり、自分にあまり関係がなかったりするような問題にあえて取り組む意義はあるのだろうか?

このように書くとひどく利己的な考え方だと思われるかもしれない。でも、自分より他人が大切な人間がどこにいるだろう?なにも自分以外がどうでも良いと言っているわけではない。私たちが社会的存在である以上、社会の秩序を守るための最低限の義務は果たさなければならない。ただ、それ以上の社会を良くするための行動は本当に必要なのか?

規模の大きな話であるが、地球にも寿命がある以上、全てが終わる日が来る。それは確実なのになぜ地球を良くしていかなければならないのか?終わってしまえばその努力は何にもならない。それならば今の自然に任せるのではいけないのか?この時代をこの年齢で生きている自分だから言えることなのかもしれない。だけど、自分の後の世代のことなんてはっきり言って私には関係がない。

これを書いた今、自分には倫理観や道徳心が欠けているのかもしれないと感じた。でも、仮に本当に欠けていたとして何が問題なのだろう?

悩みはつきない。
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「友達」と一緒 [疑問]

最近学校で他の生徒の言動に苛立つことが多い。
自分には全く関係がなく生活にも差し障りがないにも関わらず、だ。しかもその言動は今に始まったことではない。ストレスが溜まっているのだろうか。或いはなんらかの原因で人間嫌いが酷くなったのか。

癪に障る行動を例にあげるならば、移動する際にわざわざ友達を待って一緒に喋りながらだらだらと歩く、休み時間にわざわざ椅子を動かして友達と一緒に弁当を食べる、授業中の私語(小声)や手紙交換……など、多くの高校生がやっているようなことであり、いずれも私には何の不都合ももたらさない行動である。
それなのに何故これらの行動を見ると腹が立つのか。考えられる理由は二つある。

一つ目は妬みだ。私はクラスの中に「友達」と呼べる存在は数えるほどしかない。それも非常に薄い付き合いのものだ。それと対照的に彼女らは大勢の友人に囲まれ楽しそうに笑っている。実際はどうかは知る由もないが、はたから見てとても幸せそうなのは事実である。したがって、現在お世辞にも幸せであるとは言えない自分の現状と比べてしまい、妬みという感情が生じるのではないだろうか。

そうでなければ、自尊心の裏返しだろう。私は友達という存在に価値が見出だせないし、更に言えばプリクラ、カラオケ、ショッピング等の普通の女子高校生が普通にすることを素直に楽しめない。ただ教室を移動したり弁当を食べたりするのに友達と一緒が良いという感覚も友達と喋りたいという感覚も理解できない。嘗てはそのことで悩んだが今はそんな自分を受け入れているつもりである。しかし根底には人としておかしいのではないかという疑惑があり、それを隠し通すために普通のことを素直に楽しむことが出来る人達に対するマイナスの感情を作り出し、自分を保とうとしているのだろう。

では、どうすることで解決できるのだろうか。前者が原因ならば幸せを手に入れるしか解決策は無いだろう。しかし自分にとって何が幸せなのか考える必要があるし、そもそも幸せになるということはどういうことなのかという根本的なことも理解していないので、それらに関する書物を読むべきである。

後者が原因だとすると、解決するのにかなり労力を要するように思う。まず、現時点で価値が無い、楽しめないと感じているものに興味を持とうとしても恐らく不可能だろう。人として何かがおかしいという感覚は、こうして書き出してみてから気が付いたことであるが、もしかしたらずっと思っていたことなのかもしれない。しかし何がおかしいかと問われても明確な答えは出せない。

視野を広げれば私と同じような人がいるかもしれない、いや、きっといるだろう。ただそうだとしても少数なのには変わりがなく……いや、その根拠はどこにある?大勢の高校生が「友達」と行動を共にし「友達」と遊んでいるが本当に皆それを心から望み、楽しんでいるのだろうか?答えが否だとしたら何のために?……


今回の悩みは一朝一夕で結論が出せるようなものではないらしい。もっと沢山の書物を読んで頭の中を整理してから気付いたことを書き足していきたいと思う。
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母親への憎しみと復讐 [疑問]

新たな疑問が生まれた。

一度復讐の段階まで達してしまった相手を自分の人生から抹消することは可能か?

これは何度考えても自分では結論が出なかった。嫌われる勇気では復讐にまで及んだ場合当事者同士での解決は不可能だと書いてあったように思う。しかし、愛のタスクから逃げることは人生の嘘である。それは、かつて復讐をした相手にも言えることなのだろうか?

私の場合は母親だった。小学五年生の時に始めたリストカットは、愛してくれない母親への復讐が目的だった。私が手首を切れば母親は悲しむ。それを分かっていながら自傷行為を続けていた。中学二年生の時にそれが見つかった時、予想通り母親は酷く悲しんだ。その時すでに復讐は成功していたのだ。

勿論今は自傷行為などしていないが、憎しみだけは未だに残っている。ただそれもアドラー心理学に出会ってから、特に課題の分離を知ってから段々薄れていっているのを感じる。しかし母親の声を聞いたり姿を見たりすると、どうしても憎悪の感情が心の底から沸き上がってくるのだ。

18歳になったらすぐさま家を出て一切の連絡手段を絶ち、20歳で分籍するつもりでいた。そうすることで『母親』という存在を自分の人生から消そうと考えた。もしそれで共同体感覚を掘り起こせなくなるのなら、死んだことにしようとも考えた。

それはアドラー心理学の観点から見れば間違っていることなのだろうか?

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